山田幸永(画家)Yukinaga Yamada


山田氏は多賀(南熱海)で育ち、仕事をしながら油絵を描いてきた。日展や示現会などの全国的な団体展に出品し、何度も賞を得ている。網代の干物や、港を舞うかもめなど、身近な風景を題材に、見たままを描くのではなく、自分の心象風景として表現してきた。
小学生のとき、ポスターを筆ではなく手で水彩絵の具を塗ったことを当時の先生に褒められたことをきっかけに写生をはじめ、絵が大好きになったという。「子供の絵は褒めないとダメ。大人が下手だと決めつけたり、見える通りの色で描いていないことを指摘したら、子供は描かなくなってしまう」
しかし、高校時代は野球部で活躍し、絵の道へは進まなかった。本格的に絵を書き出したのは、24歳のころ。東京の先生の教室に通い、技術を身につけた。描き始めて数年後には展覧会に入選するほどの実力を身につけ、以来、生業としての電気工事の傍、52年間油彩画を描き続けている。仕事を引退した今は、絵に集中できる幸せな日々を送っているという。ここのところ展覧会への出品はお休み中だが、そろそろ抽象画のような新しいテーマに挑戦したいとのこと。若い頃のビカソが写実画を描いていたように、自分も油彩という画材は変えず、表現や世界観を絶えず変化させて行きたいと山田氏はいう。
「多賀・網代(南熱海)は、周りに自分の世界感を持っているプロの芸術家が多くいるので心強い」と仰る山田氏、これからも生活の一部として描き続けたいと語る。

岩澤文子(和装)Fumiko Iwasawa


 和服を着ることがめっきり少なくなってしまった昨今だが、日本人は、着物の柄や帯結びに季節や装いの場への意味をも籠める独特の文化を育てて来た。岩澤さんは、忘れられつつあるその「装いの意味」と「女性としてのたしなみ」を教える教室を開いている。
新潟県十日町市に生まれ。10代で家族で熱海へ引っ越し、以来、終の棲家として現在まで下多賀を拠点に装道礼法きもの学院の公認教室の講師として和装や日本の伝統的礼儀作法を教え全国を飛び回って来た。
和装や礼法の道に入ったきっかけは、若い頃市役所勤めをしていた際に、元来の好奇心から様々な文化講座を企画したこと。もともと着物が好きだったこともあり、本格的に学び始めた。
礼法とは、立ち方、座り方などの礼儀作法のこと。観光地である熱海の人々に、振る舞いも含めた和のおもてなしの心を育てる手助けをしたいというのが願いだ。
今回展示する作品は、誰の人生に大きな意味を持つ装いの場。「冠」(成人式)の儀をテーマにオリジナルの20歳の帯の形を提案する。着物の品格を重んじ、晴れやかな装いを演出する。

2011年 第51回伊豆毎日三大市市民賞受賞
2012年 熱海市の要請で、ポルトガル・カスカイス市で着物ショーを開催


岩澤文子きもの・礼法教室
熱海市下多賀1484-57
TEL/FAX 0557-68-1033
携帯:090-2264-9471

David Atamanchuk(陶芸家)ディビット・アタマンチャック


 黒と白の自然なコントラスの美しさ、自然釉に任せ、木炭とともに焼いて現れた景色の優しさ・・・ アタマンチャックさんの作品は、冗談交じりのひょうひょうとした語り口とは正反対に、床の間に置かれるにふさわしい東洋陶芸の伝統を踏襲した美しい表情をしている。カナダ出身の彼の手から生まれる形がどうしてこうも日本的なのだろうか。
バンクーバーの美術大学で、イギリスを代表する陶芸家で日本とも関わりの深い、バーナード・リーチを師に持つ先生に陶芸を教わった。カナダにおける陶芸は、芸術品ではなく、生活用品として教えられる傾向が強かったので、日本の「芸術や哲学と生活様式の融合としての芸術」と言う考え方に惹かれたという。
そして、運命の出会い。東洋陶磁史の権威である、三上次男氏のカナダでの公演を機に、日本で陶芸を学ぶことを決意した。青山学院大学に留学、一流のコレクションを誇る出光美術館で働きながら、日本、中国、朝鮮の陶芸史を吸収していったという。東京藝術大学では、初めての外国人研究生として、藤本能道教授、田村耕一教授(両氏とも人間国宝)のもと、作陶や絵付けの技術を学んだ。アトリエに並ぶ作品には李朝のかたち、桃山のかたち、と、正統な学びを背景にした、嫌みのない美しさと遊び心が感じられる。
網代へ移住したのは、芸術家の池田満寿夫と仕事をしたことがきっかけだった。池田満寿夫は晩年陶の作品を多く制作しているが、よき友として多くの時間を共にした。1986年に移住し、「楓釜」を開いた
チャレンジ!が信条のアタマンチャックさん、今回の挑戦は、大量の薪を何日も燃やし続ける、穴窯での作品作り。地元の人の支援を受けて、友人の陶芸家、佐藤さんと築釜した。ふたりの頭文字をとった「TD釜」は、ちょうど取材した今日が運命の窯出しの日。アタマンチャックさんは「うまくできるかな?」といたずらぽく笑った。

静岡県文化奨励賞受賞

廣瀬 坦(画家)Hiroshi Hirose

無駄を削ぎ落とし、論理的に最小限の色彩、最小限の形状を追求するミニマリズム(最小限芸術)を信条とする廣瀬氏のアトリエの壁には、幾何学の色面を組み合わせた絵画が実験結果のように整然と並んでいる。私たちが見てわかる「何か」が描かれているいるわけではないが、似ているようでひとつひとつ違う作品それぞれに、なにか感情や記憶が想起されるから不思議である。
大分県出身。父親も画家で、家具デザイナーとして三越百貨店に勤めていたが、1972年に建築の勉強をするために渡独した、ドイツでは「何となく」「直感的に」というような感覚的表現は受け入れられず、「日本人として何ができるか」など、表現と社会との関係性を問われ、試行錯誤したという。ミニマルアートは、1960年代にアメリカを中心に展開された美術表現で建築やデザインにも大きな影響を与えていた。廣瀬氏は、ドイツで出会ったミニマルの論理化に迷いながら〝自分を支える道標がない時期〝を経て、『ミニマルでありながらの日本人のアイデンティティ』を見いだしたいという。
作品の中には、絵の具の代わりに古裂(こぎれ)を使ったものもある。譲り受けた古い着物地には、自分も、見てくれる人にも、日本人ならではの思い起こされる記憶がある。これを通して、祖父母や両親、故郷の思い出や情景を思い出して懐かしく感じてくれたいいなと思う。と語る。
多賀へは、倉田氏との縁があり、父亡き後に母と移住した。九州で絵を描いていると、本州から離れていることや、都市との距離で不安が多かった。もっと自由に解放さたいと思って移り住んだ。今は、この場所が悪いとか良いとかではなく、ここで生きると決めている。「それもまたミニマル」。